#035-0020「葡萄」2009年06月01日 18時40分45秒

 庭の一本の葡萄の木に、小さな花房がたくさんついている。
 洗濯物を干している女房殿に、「今年の秋は、葡萄は豊作だよ。百房以上は間違いないな」と声をかけると、「たいして手入れもしないのに不思議ね」と笑っている。私は、園芸本と首っ引きで、樹勢を弱めぬように枝を切ったり施肥したりしたんだけどさ、などとぶつぶつとつぶやきながら、猫の額ほどの庭をうろうろする。向かいの家の屋根の上から見事な黒い羽根のからすがあきれたように眺め、それから一声啼くと、五月の青い空へ一気に羽ばたいていった。空になった洗濯籠をおいて女房殿は雑草を抜きながら、苺もずいぶんなっているよ、それに去年植えた苺から伸びた子株が、ミントの間にしっかりと根を下ろしているわと、楽しそうに話している。
 こんなに晴れているのに午後からは雨になるらしい。
「ええ、この前買ってきた苺用の土、どなたかいりませんかぁ。特にそこの読書をしようとして本を片手に持っている男性の方ぁ」と女房殿が笑いながら私に声をかけてきた。
「明日晴れたら、苺をポットに移植するよ。今年はブルーベリー、どうかな」ベランダの上り口のコンクリートに座っていた私は、頭を掻きながら本の栞をちょっとだけ引っ張り出して眺めた。へるんの栞と書いてある。小泉八雲記念館のものだ。女房殿は裏手のブルーベリーを見に行ったらしい。私は何事もなかったように栞を 挟んでいた場所を再び開いて、「城中の霜」の世界へ旅立つ。
 橋本左内が流した泪は香苗に届いたのだ。
「……昨夜、城中、霜始メテ隕ツ。……」噎びあげながら吟じた香苗に、思いを馳せながら目を潤ませていると、菖蒲の白い花を手にした女房殿が不思議そうな顔をして、私の横から本を覗き込んでいる。
「山本周五郎だよ」私は照れて本を閉じそっぽを向くように、女房殿とは反対の空を見上げて雨雲を探した。

まだ降らないわよ、とにっこり笑った女房殿から、陽の光の匂いが漂ってくる。
(文字数:799)
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#035-0019「別れ~旅立ち~結び目」2009年06月01日 18時40分28秒

 私の名前は優、女の子、19才。あとちょっとで誕生日を迎えちゃうけど、それまでは女の子。
 趣味はドラム。表向きはねっ。でも夜は違うのよ。今日も愛用のデザートイーグルのお手入れ、うふっ。これって結構、威力あるのよね。今夜は10代最後の狩りにでも行こうかしら。

「ゆ、優…?」
 その青年は、驚いた顔でこちらを見た。
「あら、タクじゃない、久しぶり」
「お、お前、生きていたのか…」

夜の暗黒街で、私はタクに出会った。
タクはまだ駆け出しのチンピラみたいだった。
「・・・・・・タク」
そう言うが早いか、タクが私に向かってピストルを構え、引き金を引いた。
火薬のにおいとともに、私の胸に焼けるような鈍い感覚がジワリと広がった。

「タクの弾丸が私の左の乳首に命中しちゃった・・・・・・ウフフ」
私は、タクの股間めがけてデザートイーグルをぶっ放した。

 時間は空間を射抜き、愛の事象が破壊という創造に明け渡した意思は、一瞬の矢を宇宙の炎に変えた。躁鬱する光は弾丸の飛影の舞を見せ、応化になる命はその風のごとく夢を撒き散らすのだった。

 永劫に続くかに見えた一瞬の苦しみが、反転するかのように微笑を齎した。
 それは、祈りに似た命が、錯綜する夢に愛を認めつつあったのだった。

『コイーン!』

――はっ、跳ね返した!
 信じられない。タクは弾丸を受け付けなかった。
「女の子がそんなん振り回すのは、似合わな、い」
 カクン。
 タクの身体が腰から2つに綺麗に折れ曲がり、そのまま顔面から地面に突っ伏した。
「タク!」
 私はタクに駆け寄り、無様なタクの姿を写メすると、介抱した。
 心臓マッサージ、人工呼吸……思い付く全ての応急処置を施したが、タクの意識は戻らない。
 仕方ないので199に携帯で通報すると、Tシャツの裾を引き伸ばしてパタパタとタクの顔を扇いだ。

 確かにタクの弾丸に私は感じるものがあった。
 私の弾には何が……?

 私は呟く。
――生きていたらする事は?
「唯1つ!」
 今の声は……
(文字数:800)
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#035-0018「ベロニカからの旅立ち」2009年06月01日 18時40分13秒

 見送るベロニカに手をふっていた。そのとき後頭部に衝撃があった。後に、ホームにいた若者が傘でバッティング練習をしたのだと判明した。駅構内で傘を両手でもつことが禁止される以前の話である。ハゲ頭を窓から出さないようにと毎度車内放送があるにもかかわらず……。わたくしは憂鬱になりかけた。女の車掌さんが――あるいはガードマンかもしれない――近づいてきて、赤くなった後ろをなでてくれた。
 わたくしは我をとりもどすと、隣席の『おんなのこの正体』を読んでいる女の子にコエをかけた。制服からするとY谷にあるミッションスクールの生徒だろう。彼女の肩口にはねて黄金色のシミができた。周りの乗客たちはみな気づいて、おかしさをかみ殺した顔でうつむく。ひとりが○ニスをだして踊り出す。わたくしは妥当な範囲の会釈を返した。平成も20年を経過し、挨拶のトレンドも浸透しているのだ。
 驚いたことに、女の子は初体験だったようなのだ。彼女は驚きと怒りのまじった表情でわたくしをにらんでくる。わたくしは言い訳するような気持ちになって、場当たりな質問をした。
「なぜ自分の中に入ってこられるのに侵犯と感じないんでしょうか」。
「自分の部屋に招待するようなものだから」というのが彼女の答え。「許可なく入ってこられるわけじゃないから」
 その答えはゆっくりわたくしの官能のクボミを通過した。ひとに言えない幻想がからだを歓ばせるのを知っている者だけが、想像のなかで彼女にアクロバチックな姿勢をとらせる。もっとも、共有できないものはあるべきだ、とわたくしは思っている者だ。そして、彼女も同じ考えであってほしい、と思っている。そのときすでに恋していたと、言われても仕方がないのであるが。
「サしてから気がつくんです。マチガイに。取り返しのつかない段階になってはじめて。まるで後悔するために生きてるような感じ」
 わたくしの無防備な話しぶりに気をゆるした彼女が口を開いた。
(文字数:800)
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#035-0017「欠伸」2009年06月01日 18時39分56秒

 散歩なんて柄でもないし、もちろん公園なんて柄でもない。ただ家に居られなくて無闇に歩いていただけだ。俺は不貞腐れたような素振りで空いているベンチに腰掛けた。
 子供が遊んでいて、母親が喋っていて、老人が座っていて犬が吠えている。春の光が公園の隅々にまで差し込んで、木々の若葉が流れるような音を立てる。
 まるで、何事も無かったかのように。

「来ないの?」
 不意に隣から声がした。
「何だよ」
 振り向かなくても声でわかる。
「逆方向だよな、ここって」
「うるせぇ」
 不意に欠伸が出た。大きな口から言葉が転がり出る。
「俺は認めねぇからな、絶対」
 くすっ、と笑い声が聞こえる。
「変わらないねぇ、そういうトコロ」
「うるせぇ」
 春風が頬を掠めて通り過ぎる。奴のリズミカルな足踏みが言葉の隙間を埋める。
「お前だけだぜ、見舞いに来なかったの」
「嫌いなんだよ、病院とか」
「どっか悪いのかなって、気になってさ」
「馬鹿野郎、他人の心配なんかしやがって。お前がどんだけ心配かけたと思って」
「へぇ、心配してくれてたんだ」
「……んなわけねぇだろ、俺は」
 大きな欠伸が続けてふたつも出る。
「変わらないねぇ。安心した」
 奴は隣でくすくす笑っている。
「そこがお前のいいところだからさ、まあ頑張んなさいよ」
「相変わらず上から目線だな。タメだろうがよ、俺等」
 何度目かの欠伸で、鼻の奥がつんとする。
「じゃ、そろそろ行くよ。みんな待ってるし」
「俺は行かねぇぞ」
「わかってるよ」
「認めねぇからな」
「わかってるって」

 俺は絶対、認めねぇからな、お前が……。

 俺は立ち上がった。振り向いたベンチに人の気配は無く、公園は相変わらず春の陽射しに覆われている。
 昔から涙を堪えると代わりに欠伸が出る。俺は空を見上げて、大きな欠伸を繰り返しながら歩き始めた。目尻に浮かんだ涙を手のひらで擦る。畜生、何でこんなにいい天気なんだよ。何で今日も空はこんなに青くて、世界は何ひとつ変わりゃしねぇんだ。
(文字数:800)
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#035-0016「ふりしきる桜のしたで」2009年06月01日 18時39分40秒

 四十年も前になるだろう、一人の田舎者が青雲の志と期待を胸に秘めて東京に人生の旅立ちをしたのはつい此の前の様だ。始めて見る大都会其の規模の大きさと素晴らしい建築物には圧倒される。嬉しい!私の胸ははち切れんばかりに膨らんで、何か良い事が起きそうで高鳴るのを覚える。当時クラス中大学に進学する者は二名ほどで、殆ど全て就職していた。私も例にもれず、工業高校機械科専攻一端のエンジニアだと自負していたのである。
 私のクラスでも進学した者は二名だけだった。一人は私、そしてもう一人は背の高い美青年で名を匠と言った。偶然にも二人は同じ大学に合格した。匠と私は夜汽車に揺られ朝霧の漂う上野駅に降り立つ。坂を上るとそこは桜で満開だった。なんと美しい風景!しかし綺麗なものは桜だけではなかった。いや、やはり美しきは桜と言うべきだろうか。丘には一人の女性がたたずんでいた。それが私達と桜との出会いだった。

「匠くん負けないでっ!!!」
 4年後、匠は武道館でライバルとの決勝戦を演じていた。
 応援席最前列には、私と、桜の姿があった。
 私は匠の親友であり、桜は恋人であった。
 武道館での決勝戦、それは死闘だった。
 こんなに激しく、熱く、火の出るような試合を私は見たことがない。
 匠の熱い魂と、それに負けんとする男との、気迫のぶつかり合い。
 熱気で武道館内に濃霧が発生したかと思わせた。

 数ヶ月前、私は大学を卒業した。
 しかし、この3人には卒業なんてものは無かった。

 いや、そう思っていたのは私だけだ。

 別れの言葉は記憶にはない。風が強かった。桜並木がごうごうと枝を振り、花びらが渦を巻いた。あの日私は、恋人と親友を同時に失ったのだった。
 年月は全てを押し流した。それでもここに立つと思い出さずにはいられない、もう還らない時を。若かった我々を。
「おじいちゃーん」
 満開の桜の下、孫が手を振る。今行くよと踏み出した足先に、薄桃色の花びらがはらはらと舞い降りた。
(文字数:800)
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