#002-0046 「喰」おさか さん2005年11月28日 12時58分42秒

 とん。試し切りした少し熟れ過ぎのトマトが、すんなりとふたつに割れた。さすが研ぎたての包丁、切れ味が全然違う。早速玉ねぎに取りかかろう。あの人、かなりの腕前かも。
 ここはオートロックのマンション。常駐する管理人夫婦は職務に忠実な頑固者で、たとえ住人の親族であろうと断り無しに通過はさせない。だからその男の言葉も疑わなかった。いつも包丁研ぎを頼む近所のお爺さんが急病なので、代理で回っている、という。「私も元は打ち刃物の職人でして」とんとんとん。ぼそぼそ聞き取りにくい声だった。値段はいつもと同じだったからお願いしたけど。とんとんとん。気になったのは。とん、とん。
 あの時、なんて言った?包丁を納めに来た帰り際。「・・・ないよう気をつけてくださいよ」笑っていた。そしてその顔はなんだか。とんとん、とん。
 ふいに、切っているモノが玉ねぎではないことに気がついた。左手の指があらかたなくなってしまっている。しまった私ったら、何を。ちゃんと「猫の手」にしていたはず。それに・・・痛みが全くない。出血もしていない。切れ目はあるのに、と思った瞬間吐き気に襲われた。私の指、指は?切り落とされたはずの指がどこにも見当たらない。まな板の周辺や裏まで見たがない。包丁を丹念に見てみたが、何かを切った痕跡さえない。さっきから沢山切っているのに。現にトマトや玉ねぎのスライスはここに。
 まさか。生きているモノだけ?この包丁で生きモノを切るとどこか別の世界へ行く、なんて。いずれにせよ私の指、取り戻さなければ。吐き気を堪えながら考えた。そして一つの結論に辿りついた。
 包丁を握る右手に力を込め、とん。まず左手の手首から先が消えうせた。
 例の男の言葉を完全に思い出したのは、喉笛に刃を入れた、その刹那だった。「喰われないよう、気をつけてくださいよ」力を失った右手から、包丁がすとん、と落ちた。

コメント

_ 錆びたレール ― 2005年11月28日 19時47分44秒

おちは数パターンあったのでしょうか?

面白怖いこの文章、削るの大変だったなぁと思いました。
文章は生き物でないから削れないですよね、この包丁では 残念!!(斬リィー)
全体がとんとんで時間経過しているところを
最後にすとんでとめたところが個人的にツボでした。

_ ふう ― 2005年11月28日 20時47分40秒

読み始めから「もしやなにかあるかも?」という、エッセイとは違った何かが起こりそうな予感を感じる出だしでした。

そして、錆びたレールさんがおっしゃる通り、「とん」「とんとん」、そして「すとん」とかも、耳に届くような文章内の語句が、すごく文章全体に「面白&怖い&迫り来る緊迫感」を、効果的に伝えていますね!
まるで、読んでいる人の心臓の鼓動、ドキドキを意識して書いて、ドキドキ感を誘っているようです。

トマトで切れ味の良さを表現しているのも、実体験ならではでしょうか?納得です。(トマト、よくつぶしちゃうんです、私)
おまけに後に続く「面白&怖」世界への入り口として、視覚的にも「赤」は、なにやらアヤシゲで気になる、強烈な印象も感じました。

_ 木の目 ― 2005年11月28日 23時05分29秒

文章の切れ味もすごい。只者ではないと思っていましたが、さぞや名のあるお方とお見受けしました。

_ 明衛門 ― 2005年11月28日 23時38分33秒

最初の一行で、一気に引き込まれました!すごい!
何度も読み返しています。
このような素晴らしい文章を書く方と同じ土俵に立っている、と思ったら、自分の文章が恥ずかしくなってきました、、、。
「とん」と自分から切り、「すとん」は知らぬ間に落ちていく、ということですね。こんな簡単な言葉で、いろんな思いが表現できるのだ、と感激しました。勉強になります!


_ 菜の花 ― 2005年11月29日 08時30分58秒

怖かったです。
文章は素晴らしいのですが、読み返すのが怖い。
勉強になりますが、この世界は苦手です。

_ hana ― 2005年11月29日 14時50分55秒

最初は引き込まれるように読みました。
が、私も菜の花さんと同じく怖いのは苦手なので…想像すると食欲が…。

_ おさか ― 2005年11月29日 17時06分10秒

娘の熱は一日で下がり(ふうさん、ご心配いただいてありがとうございました)、ヤッター♪と思って急いで書き上げました。沢山のコメントありがとうございます!

>錆びたレールさん、オチの方は実は決まってました。このオチに、800字で持っていくのが難しかったのです・・・ほんとは千字くらいありました。
>ふうさん、素晴らしいコメントに私の方が恥じいっております。トマトの赤は実はあまり意識してなくて、単に包丁のキレが悪くなると一発でわかる野菜だから・・・うーん生活のにほひが。
>木の目さん、いやいや只者ですよ、ほんとに。
>明衛門さん、何度も読み返してもらえる文章を書くのが目標なのですごく嬉しいです!
>菜の花さん、hanaさん、そう私は実はホラー好き。怖がらすのも大好きなのです。ごめんなさい(笑)。

ああ私もコメントを書かなくては・・・頑張ります!

_ ukihaji-12 ― 2005年11月29日 21時13分20秒

初めてこんな文章に出会って驚きました。 表現の世界の深さに感銘し、すべて計算されたような怖さが、猶怖さを引きたてている様です。 大変勉強になります、自分の未熟さが、恥じ入るばかりです。

_ ぎんなん ― 2005年11月29日 21時31分58秒

怖い。
怖いけどとんとんと読めてしまう。
すとん、と終わったら何故か読み返したくなる。
読み返しても怖い。
でも何故か読み返す。
何回か読んでしまいました。好きです。でも怖い。

_ コマンタ ― 2005年11月30日 01時32分54秒

私もはき気をこらえながら拝読。
800字でこんなこともできるんですねえ。感心してしまいました。

どうするとこんなふうに書けるのか、とくに音の入れ方とか、まったく見当がつきません。

_ 明衛門 ― 2005年11月30日 05時32分09秒

【1票】
ねるとんじゃないですが、最初から決めてました!
私のどんぴしゃストレート、好きです。

_ おさか ― 2005年11月30日 20時47分12秒

>ukihaji-12 さん、褒めすぎですー。個人的にはラスト直前にいきつくあたりの展開がちと甘いかなーと思っているのですが。でも嬉しいです、ありがとうございます。
>ぎんなんさん、いっぱい怖がっていただいて(?)ありがとうございます。
>コマンタさん、音の入れ方は包丁とまな板ですから主婦の強みですよ、なんちゃって。
>明衛門さん、初めての一票ありがとうございます!!

_ めきし粉 ― 2005年11月30日 21時52分30秒

某新興宗教のご利益で「切った指が生えてくる」とあったのに大笑いしてしまったことを思い出しました。ブラックジャックではないですが、指先の第一間接ぐらいまでの切断だと、指先が再生するという話を聞いたことがあります。恩師の先生は電動カッターっで四指切断し神経まで縫合して回復しておられます。リハビリが大変だったという話ですが。

_ まゆ月 ― 2005年12月01日 12時24分07秒

とても話の運びが上手だと思いました。

_ こば ― 2005年12月01日 23時58分40秒

 痛いよう、怖いようと泣きながら繰り返し読ませて頂いています。実は私、怖いものがだめで、だめで……。ならば読まなければいいのですが。
 そしてあの、具体的に言うのもどうかとは思ったのですが。トマトのように切られていく体を、痛みも流血もないのに抜けていく力を、うっかり我がことのように感じてしまい、心無しか左手が冷たいです。
 この包丁、まさかマンション内の他の部屋でも、とか近所のお爺さんももしや、などと想像が想像を呼ぶ底の深い恐怖でした。お見事です。

_ でんち ― 2005年12月02日 22時35分48秒

怖かったー。ドキドキしたー。カッターナイフが大嫌いな私には寝る前に読んではいけない作品でした・・・。とん、とん。スパッ。あー、やだー。
すごい力作。

_ KEN ― 2005年12月03日 11時53分29秒

痛くて途中で読むのをやめようと思いましたが、
最後まで読んじゃいました。
(昼間に読んでよかったです 笑)

_ オバQ ― 2005年12月03日 19時57分15秒

刃物なんて近くにないのに、思わず自分の指見てしまいました。
引き込まれうように、読ませていただきました。

_ ラッシー ― 2005年12月04日 21時04分42秒

読み進むに震えがくるほど怖かったです。これほどまでに文字が音声にもなりうることをヒシヒシと知りました。
しばらく包丁を握れないかも。

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